雑駁一瞥近代日本文学史・3
3 紅露時代(擬古典主義)
・新しもの好きの写実主義に対して、同じく明治20年代あたり、江戸文学や漢文学の影響を承けつつ、小説を書いた人たち。覚える(★)のは2人。
a 尾崎紅葉★
文学結社「硯友社(けんゆうしゃ)」★を主宰。代表作は何といっても『金色夜叉』★。「♪僕が貫一、君はお宮」でおなじみ(もうおなじみじゃないんだろうな…)、といいつつ、私は読み通したことはありません。小説は(いや、小説以外の何でも)同時代だからこそ面白かったものと、普遍性をもって面白いものとに分かれますが、紅葉は多分前者です。
b 幸田露伴★
代表作は『五重塔』★。気骨ある男性像を描き、女性的といわれる紅葉とは対照的です。
露伴先生と聞いていきなり反応したりしないこと。コーラを飲んだらゲップが出るってくらい確実に違います。
対照的な二人ですが、二人そろって「紅露時代」★と称されもします。
そしてもう一つ、重要なポイントが。それは、「2」の写実主義とあわせて、「言文一致」★の問題をなしにこの時代の文学は語れない、ということです。
紅露の擬古典主義と、写実主義はほぼ同時代に位置しますが、どちらにも共通の敵がいました。それは、江戸時代までの「文体」です。
いつの時代もそうですが、話し言葉は流行に従ってめまぐるしく変化していきます。目新しければ目新しいだけ、人に伝えたいことをより印象的に伝えられるのでしょう。しかし書き言葉はそれに比べて変化が遅い。それだけでなく、往々にして軽佻浮薄な変化を嫌い従来のものを「正しい」と主張します。作文で「すげー」とか「超」とか「ギガ」「テラかわゆす」「ヤバい」だの書いたら、減点になりますよね。「とても」が正しい、と。そういうことを考えるだけでわかると思います。もちろん書き言葉も、緩やかに変化するし、規範も徐々に変わっているのですが。
さて、明治の新時代、書き言葉の文体は、江戸時代のものをなかなか脱せられません。江戸時代のものと書きましたが、江戸のころの和文体の規範は「平安時代」のものです。例えば「さてはその翁のすみたまふ家は何方にて侍るや」(雨月物語)などと江戸文学にはある。ですが、そんな会話など、江戸の民衆たちは話していないのです。でも物語を書こうとするときに「そういう書き方」しかできない。話し言葉を書き言葉にするなんて簡単だと思うかもしれませんが、確固とした枠というものがあり、なかなかそれができないのです。*1
そういう状況を、近代文学の創始者たちは、何とか乗り越えようと悪戦苦闘します。なぜそうしようとしたのか。ものすごくざっくり言ってしまえば、「ふだん話し言葉で使っている言葉を使わないなんて「リアル」じゃない! かびのはえた書き言葉なんてくそくらえ! 俺たちは新時代にふさわしい、「リアル」な言葉による小説が書きたい!」と思ったからでしょう*2。そこで生まれてくるのが「言文一致(言文一致体・言文一致運動)」★なのです。
文学史的記述では、一般に、二葉亭四迷が「だ」、山田美妙は「です」、尾崎紅葉は「である」を導入した、とされます。とはいえ、彼らのみが発明家だったというのは正確ではなく、小説のみならず、講談や落語の筆録だの、新聞だの、はたまた軍隊だの国民国家だのがいろいろ絡み合って生まれるのですが、ともあれ、いまの私たちが当たり前に用いている文体の基盤は、この人たちがある種意図的に作り上げたものなのだ、ぐらいには理解しておいてください。
思わずあれこれ書いてしまった。このぐらいの内容も、普段の講義なら2〜3分でスラスラ喋ってしまうのですが、書くとなるとラクじゃないな。小説紹介を全然していないでやたらに文章を連ねていて恐縮ですが、もう少しお待ちあれ。漱石ぐらいから紹介記事がバンバン増えますので。