雑駁一瞥近代日本文学史・2
2 写実主義
・欧米の文学の潮流は「リアリズム」らしいよ!
・江戸時代の文学といえば上田秋成『雨月物語』も、曲亭馬琴(滝沢馬琴)の『南総里見八犬伝』も、荒唐無稽の虚構で、恥ずかしい! 世界に散らばった八つの玉を持つ「犬士」たちが集まって仇敵を討つとか、神龍を呼び出すとか(←これは無い)、めっちゃ恥ずかしい!
↓
・結果=日本にもリアリズムの文学を流入しよう。それが「近代」国家!
↓
「写実主義」(明治20年前後)
覚えるべきは2人。
a 坪内逍遙『小説神髄』
戯作の勧善懲悪を否定して写実主義を説く評論。岩波文庫で読めますが、今は別に勧めません。
ただ、「小説の主脳は人情なり、世態・風俗これに次ぐ。」の一節は有名なのでここに記しておきたい。「文学」の重要な要素として逍遙は「人情」つまり、人間心理の写実的な描写を第一に置くのです。この認識は、これ以後の近代文学の主流となります(もちろん様々な異論反論が噴出します。それはこのあとのお楽しみ)。諸君の一部が大変苦手とするありがちな設問「登場人物の心情を考えてみよう」は、逍遙によって用意されたといえましょうか。
もちろん、逍遙以前の古典文学においても様々に心理は描かれてきましたが、西洋近代が「発見」した「個」「自我」という問題が不可分に入り込んでくる点がポイントです。このあたりは、このあと論説文をガシガシ演習するなかで様々な角度から多く取り上げられることでしょう。
b 二葉亭四迷『浮雲』
逍遙の理論を実践した小説。これも別にいまは勧めませんが、文学史においてグダグダいろんな小説の主人公たちが悩んでいるけれど、そのプロトタイプがここにあるな、と、ある種の感動を覚えます。
1 エリート街道からドロップアウトした(しかけている・しようとしている)主人公が、【だって自分の自我がすんなりエリート街道に乗ることを許さないんだもん。でも本当は俺はやればできる子。】
2 エリートと比較されたり【社会はあいつばっかり認めて俺を認めてくれない】
3 恋するけどうまくいかなかったり、エリートの方にいかれてしまったり、【近代的な「恋」をする俺。自我があるから恋を覚える。でもその恋愛はうまくいかない。】
4 そして女の考えていることは結局よくわからず、【女は永遠の他者である。もてるヤツは敵だ。もてないヤツは訓練された敵だ!】
5 まあ要するにグダグダ悩む【だって自我があるから。あれ、本当は俺、やればできる子だったよね? どこで間違えたのかな…?】
というアレですよ。
わざと露悪的に書きましたが、学生のころ、これぐらいは押さえておかねばぐらいの気持ちで読んでみたらけっこう面白いぜこれ、と思った覚えがあります。
この企画、本当に怒られそうだな…。