秋晴れの日曜日、太宰治の足跡を訪ねて、三鷹の地を訪れました。
 一人もF組の生徒には出逢いませんでした…。(涙)
 日が悪かったという説もあります。いや私はその説を信じたい。


 冗談はさておき、ボランティアのガイドの方の案内で、2時間半ほど、三鷹の街を散策して、太宰の三鷹時代に思いを馳せました。駅前の国木田独歩の碑、三鷹駅南口の伊勢元酒店跡(現、太宰治文学サロン)、玉川上水の太宰入水地点付近、太宰旧居跡、そして森鷗外太宰治の墓(禅林寺)を経て、再び三鷹駅へ。
 もちろん、下調べをして自分たちだけで回ることもできるわけですが、ガイドの方の解説によって、見過ごしがちなところにも気づかせてもらいました。感謝申し上げます。それにしても、太宰に関わる場所のそれぞれが、大きく変貌していることが逆にわかりました(現在の玉川上水も当時に比べてずいぶん流量を減らされているそうです。確かに、あの程度のチョロチョロの小川では、入水などできそうもない)。では旧跡を巡ることに意味がないかといえばそういうこともありません。変貌していない場所や自然ももちろん残っているし、それ以上に、変貌を経ても、<場>の空気や雰囲気、距離感などを体感することに意味があるものです。いろいろと太宰の作品や知っているエピソードが浮かんできて、短い散策でしたが楽しい時間でした。

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 禅林寺には森鷗外の墓もあります。というより、生前の太宰が鷗外の墓を散策したことについて文中で触れたことを、美知子夫人が太宰の没後思い当たり、その埋葬を青森の墓地に断られたタイミングもあってこの禅林寺にお願いし、埋葬してもらったという経緯があるとのことで、正確には、太宰治の墓もある、と言うのが正しい。
 で、鷗外の墓も詣でたわけですが、鷗外が、軍医としての栄達や、また文人としての栄誉とは無関係に、虚飾なく葬ってほしいことを伝えた遺書はよく知られています。一人の人間、森林太郎として葬ってほしいというその願いのとおり、鷗外の墓は「森林太郎墓」の5字しか刻まれていません。
 それはいいのですが、ふと、この鷗外の墓の隣の墓に目を移したら、でかでかとその故人が曹長であったことを誇る碑が墓に並べられて建立されていました。このおそらくは市井の無名氏、たまたま隣の墓が陸軍軍医総監・鷗外森林太郎であるだけで、まるで虚飾まみれのように映ってしまいかねないこと、可哀想なことである。人とはどうやらその死後においても不条理を生きなければいけないようです。