テストといえば、テスト問題で、例文に「殺人」の例を挙げて出題したどこかの教員が処分を受けたとか何とか。
 信じられません。
 この一件、報道に接するかぎりいろいろ信じられないことだらけなのですが、そもそも「殺す」ことをネタとして笑いをとろうとする、その「笑い」に対する認識の低さが信じられません。(もちろん「死」に対する認識の低さがそもそも信じられませんが、もはやなんというか、それに対して何の言う気もおきません)


 何を「笑い」と考えるか。どう「笑わせ」ようとするか。これは些細なことのようで、その笑わせようとする人の、人としての<格>をさらけ出します。悲しいぐらいに。
 勘違いしないでほしいのは、別に笑いそのものを否定する気はないのです。下品なネタを言う/言わないとも関係ありません。だが、「それを笑うこと」「そう笑うこと」が、笑われた側を逃げ場のないところへ追いやったり傷つけたりすることに、想像力がない者は、その笑われた側のみならず、それを聞く第三者からも、軽蔑される。そういうことを、嗤う側は気づかないようです。軽蔑されていることすら、想像できない。
 子どものうちは想像力がないので、何でも笑います。何でも笑いにしようとします。ですが、年を重ね、親や周囲の大人からしつけられ、また自分自身いろいろな経験や失敗(痛い目)を重ねていくと、人は想像力を手に入れていき、何を笑って、何を笑ってはいけないのかを学んでいきます。世の中の禁忌や常識を破る危うさに接し、非常識・不合理・不見識なものと戯れながらも、「そのとき笑ってはいけないもの」を見つけていくのです。


 ですが、それができない人もいます。人を嘲笑うことでしか笑いのとれない者。触れてはいけないものに平気で触れて嗤う者。嘲笑い、嗤う以外の<笑い>の領域があることを知らない者。そういう者の延長線上に、今回の事件が起こったのではないか、と思わされた一件でした。たしかに授業やテストで生徒を笑わせることはあります。ですが、この「先生」は、そういうかたちでしか生徒を笑わせられなかったのでしょうか?


 見当外れなことを言っていたら申し訳ない。だが、なお贅言ひとつ。テレビで見るお笑い芸人は数あれど、<格>の低さ、下劣さをさらけ出してはばからない芸人と、そうではなく芸人との違いが、少しその「笑わせ方」を見ているとあぶり出されてきます。この違いも、高尚だとかくだらないとかということとはちょっと異なる軸においての違いです。で、その多くは編集で無難に排除されているフシがあるのですが、時々それがほの見えるときがあります。そしてそういう「芸人」は、私の視聴経験では大概は消えていくようです(何人か、平然と生き残っている芸人もいますが。そういう芸人にかぎって、うすっぺらい「感動」ものが好きだったりします)。お笑いは無類に面白いですが、そういう観点もツールとして持っておくといいのではないでしょうか。