先に触れた高1対象OB講演会「進路・文理選択を考える」に接して、エネルギー業界にお勤めだけれどもとは文系だった、というOB氏のエピソードについて思ったことを述べたい。

 諸君の直近の興味としては、やはり文理どちらを選ぶか、という点にあるでしょう。そもそも日本の高校における<文理分け>自体が、学問や職業の実態に即していない、という批判は、結構あります(某都立名門高などは高3まで文理分けがないそうです)。その批判はそれとして、高校生ぐらいだと往々にして文理の選択を職業選択と同義として考えたりしがちなのですが、興味のある分野・領域を扱う学問・職業が、必ずしも文系・理系のどちらか一方に偏っているわけでもない、というケースも、存外あるものだ、という視点を、OB講演会は与えてくれました。

 もちろん、このことは分野・領域によります。文系に進んだら、理系に転じないかぎりどう逆立ちしても医者にはなれません。ですが、例えば医薬品の販売業界などが全員理系出身者でなりたっているわけではないのです。医療政策・医療行政にたずさわる官公庁の担当者だって、全員理系というわけではないでしょう。ケア施設の運営などは経営に属するハナシです。社会における医療の諸問題を論じて世に問う学者や評論家、ライター、新聞記者は文系的な学問や技術習得を経てその生業に就いたはずです。などと、思いつくままにダラダラ挙げてみましたが(あくまで例えです)、そういう観点もアリなのです。


 ちなみにこの件、逆のこともいえます。自分は文系に進んだ。特に強い志向もなく、ある企業に就職をした。で、配属された部署は医療業界との折衝を主にする部署だった。このようなことだって往々にしてあるわけです。そのとき、僕は医療に興味ありませーん、だって文系だもん、とは言えません。逆に、文系で、新聞レベルであっても医療に関する興味を持ち続けているような人は、その興味が役に立つし、実際、興味が仕事と重なる部分を持っていると、その仕事は充実感を持ったものとなるでしょう。過度に<文理分け>を固定的に位置づけている現行の日本の学校制度は、そうした将来につながるべき広い興味を「殺し」てしまいかねない側面を持っています。広い興味を持つことは、将来の職業や生活における「充実」につながるという大事な側面もあるのです。


 雑駁な物言いになりましたが、OB氏の話はまさに、そうした広い見通しを与えてくれたように思います。文/理どちらかを決定したことで、就職までの道筋が全て決まるわけでもありません。将来像や興味のある職業について、とにかくいろいろ調べてみてください。親御さんや親戚、先輩の話もぜひ聞いてみるといいでしょう(いつも言いますが、教師の企業社会に関する見識など、実に狭いものです。企業で働いている身近な人に聞くのが一番いい。その方自身の職業だけでなく、その仕事のなかでたくさんの職種の方々と触れ合っていて、職業について一家言を誰でももっているはずなのです)。そうした自分からの動きを経たうえで、自分自身の興味や適性を勘案して、決定の時を迎えてほしいと思います。


 さて他方、こうした講演会の功罪、ということも考えます。何が「罪」かというと(いや、罪というほどのことでもないのですが)、<「本当に好きなこと」を職業にしなければいけない幻想>を過度に植え付けてしまうのではないか、という点です。これについては二つの側面から思うところがあります。
 一つは、「本当に好きなこと」は仕事にしない、という考え方もあるよ、ということ。
 もう一つは、決まらないなら決まらないで、何とか漠然とした興味に従って進路は選んで、その方向性のなかでがんばっていけば、そのうちビビッという出会いがある、ということもあるよ、あまり将来を決め込み過ぎるとそうした出会いに気づく柔軟性を失うよ、ということ。
 この件は時間もないので別の機会に譲りますが、つきつめると議論は「仕事ってなんだろう」という問題になっていきます。「充実感」「やりがい」「自己肯定」「自己実現」に絡み合う厄介さを孕むのですが、これはこれで、よーく考えてほしい問題です。というか、考えていかざるをえません。でもそれもまた楽しいものです。