村上春樹『ノルウェイの森』

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

 村上春樹ノルウェイの森』が映画化するというのを知った。


 『世界の中心で愛を叫ぶ』がその記録を抜くまで、長らくベストセラー第一位のタイトルホルダーだった『ノルウェイの森』だが、まともに読んだ人なら、まず間違いなく、『ノルウェイの森』を映画化できるのか? と疑問を抱くのではないだろうか。『ノルウェイの森』は、村上春樹作品のなかでもとりわけ性描写と切り離せないはずで、それを本当に映画という制約のある媒体で表現できるのか、と。


 本当に表現できるなら凄い。だが大概こうした場合はお茶を濁されておしまい、であるケースが多い。お手並み拝見である。(そういえば吉田修一『悪人』も映画化するという。これも性をちゃんと描かないと作品の良さが全然生きないはずだが、大丈夫だろうか)


 『ノルウェイの森』のあらすじはここでは省くけれど、実のところ、この作品を読んだときに私は、「ものすごい駄作か、ものすごい名作か、どちらか」という感想を抱いたものだった。1969〜70年*1の東京という特殊な時空というその固有性から作品を切り離すことはできないものの、しかし一方で、若い自意識の在りよう、死者たちに対して生き残る者の思いの在りよう、コミュニケーションとディスコミュニケーション、といった普遍的な問題もまた十分に描いている作品であり、その普遍性と自分とが響き合えば、名作となるのだと思う。

 たまたま先に挙げたが、作品の最後は、いま改めて読み返すと『世界の中心から愛を叫ぶ』を思い出した。『世界の中心…』を読んだなら、ぜひ『ノルウェイの森』を読んでほしい。『ノルウェイの森』は、「セカチュー」がいう「世界」のさらに「先」をレベルの「世界」を描いている。ちなみに「ノルウェイの森」という題はむろんビートルズからだが、結末は同じ『ラバーソウル』の「nowhere man」(邦題「ひとりぼっちのあいつ」)を想起させるだろう(こんなことはとうに誰かが言及している気がするが)。だが「nowhere man」だから死を選ぶのではない。「nowhere man」であっても「私」は生きていくことを選ぶ。これは「死」を賛美する物語ではない。「僕」が死に正対して生を歩みとる物語なのである。そう読んだ。


 それと贅言ひとつ。この作品の<性>の位置づけには若干の不満がある。性表現そのものは<生>と切り離せない問題であり描くのは何の問題もないが、この作品では、あまりに性行為と恋愛感情が脳天気に結びつけられ過ぎている。村上春樹の近年の作品は読んでいないのだけれども、このあたりはどう変化しているのだろう。【ym】

*1:1969年はいろいろな意味での日本のターニングポイントであることはよく言われる。ちなみに、次にやってきたターニングポイントは1995年であることは疑いない。