仕事について

 総合学習の評価をつけている。後期のテーマ「職業を考える」のレポートの感想を読むと、どうやら諸君の関心は、「やりがい」と「定職」との間を揺曳しているようです。
採点をしながら思うことはいろいろあるのですが、一つだけ。
「やりがい」のある仕事、という言葉がとびかってはいるものの、「やりがい」を、初めからどこか外在的にあるものと見なすだけでなくて、仕事をしていくなかで遂行的に見つけていくものとして考えてみてもいいのではありますまいか。


思うにやりがいのある仕事とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものともいえない。仕事に前向きに全力で取り組んでいれば、それはやりがいになるということだってあるかもしれないのです。


パクリ? 閏土? 何のことです? とまれ、こらえ性がなかったり、物事を何でも早上がりして考えたがる性向を持っていたりすると、すぐに「これは自分にあっていない」「これは意味ない」と決めこみ、まだ見ぬどこか別の仕事を求めていくことになるかもしれません。
それはそれで一概に悪いとは言えないし、自分の仕事を批判的に見ないこともまた思考停止ではあるのですが(日本が転職を認めない新卒社会であることはこれはこれで批判すべきことでありましょう)、自分の仕事のなかに喜びを見つけていくというスタンスもまた、持てるといいのではないかな、と思います。
喜びややりがいが、向こうからものすごくわかりやすい形で大手を振ってやってくる、ということはあまりありません(特にこのご時世では)。ですが、それをすぐに「喜びがない」「やりがいがない」と早上がりしてしまうと、喜びややりがいにつながる小さな芽を見逃したままになってしまうかもしれない。
芽を見つけるのも、一つの能力なのだと思います(これ、いわゆるセレンディピティの話だな。そういうつもりで書きはじめたのではないのだが)。


ここで必要になってくるのが「認識のもち方」なのですが、これを養うのが国語の大きな役割
だと私は思っています。これは私のいうところの「国語=実学」論なのだが、そのうちまた別の機会に。